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生きることを諦めないこと

本当の言葉を書きます

プロの写真家

 歌舞伎俳優の写真を撮り続けて半世紀余り。大学時代、十七代目中村勘三郎さんに声を掛けられたのをきっかけに舞台上の写真を撮り始め、主な歌舞伎公演にはほとんど通っている。1996年に糖尿病のため両足を切断したが、以後は車椅子に乗って地方公演にも出掛け、撮影を続けている。


写真展で愛用のカメラを持つ筆者
 終戦前年に家族の疎開先だった山梨県で生まれた。幼少時の娯楽といえば映画。神社や学校が校庭にスクリーンを特設し、土の上に座って見る。小学校に入った頃、農家の納屋を改造した映画館ができ、弟とよく行った。上演するのはチャンバラがほとんどで萬屋錦之介が憧れのスターだった。

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 錦之介の出演が目当て

 小学5年で上京すると、映画館に通いつつ、工場を経営していた父親のカメラで遊ぶようになる。小学生向け雑誌の写真コンクールでも入選し、写真を撮ることが好きになった。人間の動きに面白さを感じてシャッターチャンスを狙っていた。

 歌舞伎を見るようになったのは錦之介目当てに出掛けた舞踊公演。歌舞伎俳優出身だった錦之介の舞踊会に叔父の勘三郎さんが出演していた。当時は舞踊会の多くが撮影自由で、高校生になるとカメラ持参で劇場に行くのを趣味とした。そのうち勘三郎さんの「高杯」や「身替座禅」といったコミカルな歌舞伎舞踊に魅了され、大学に入る頃には一般の同好会に参加。歌舞伎ファンの仲間入りをした。

 大学1年のとき、同好会で勘三郎さんの芸談を聞く会があった。ちょうど自分の撮った勘三郎さんの写真で疑問点があったので、本人に見せた。すると「あなたのシャッターチャンスは早すぎる」との指摘。舞踊の写真は振りの極(き)まった瞬間を撮らなければならないことを教えられた。

 続いて勘三郎さんは私の他の写真をよくご覧になり「僕の写真、撮ってもらえませんか」と一言。「よろしくお願いします」と即答した。18歳の歌舞伎ファンにとって余りにうれしい一言だった。が、具体的にどうすればいいのか分からない。

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 思い切って楽屋を訪問

 1週間後、知人のつてを頼り、思い切って楽屋を訪ねた。すると「何の話でしたっけ?」。しかしすぐに思い出してくださり、本人の記録用に舞台写真を撮るようになった。全国の公演に出掛け、プロ写真家として第一歩を踏み出した。

 大卒後は映像制作会社に就職。好きな仕事だったが多忙でげっそり痩せてしまい、1年で退職する。以後10年ほどは皿洗いやレジ打ちのアルバイトで生計を立てて舞台写真を撮り続けた。

 同好会の紹介もあって、次第に五代目中村富十郎さんや三代目市川猿之助(現猿翁)さん、九代目沢村宗十郎さんや六代目沢村田之助さんらの写真も撮らせていただくようになる。30代でなんとか写真家として生活できるようになった。

 仕事が広がったのは約35年前。東京・歌舞伎座でカラーのブロマイドを販売する企画があり、撮影を依頼された。それまで歌舞伎の舞台写真はモノクロが大半だったので、カラー写真は評判が良かった。それから各劇場と相談して毎月の公演で撮影しようという話が進み、現在に至る。

 歌舞伎の公演は月替わりで各月25日間続くのが基本。初日から最低5日間は舞台を撮影。その間も幕あいは現像所に走り、帰宅すると写真を選別。一通り撮影が済むと写真を俳優本人に見せ、選んでもらうのに2、3日かかる。

 俳優本人に選んでもらうことでその人の美意識が理解でき、何よりの勉強になる。それから劇場内に写真を張り出して、10日目くらいにやっと一連の作業が落ちつく。

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 3台目は三脚と一体

 51歳のとき糖尿病が悪化して両足を切断した。悲観することなく、退院したらどうやって舞台写真を撮ろうかと考えた。退院直前に外出許可をもらって行った歌舞伎座で、偶然十八代目の中村勘三郎(当時勘九郎)さんに会った。車椅子の私を見て「目が見えて手が動けば、写真撮れるじゃない! カメラマンでよかったね!」と明るく励まされたのも心強く、活動を再開できた。

 ただ一般的な車椅子に座ると撮影位置が低くなってしまう。劇場用にサイズがコンパクトで、座面を高くするクッションを置ける車椅子を特注。現在の3台目は三脚と一体になる。以前のように劇場内を動き回ることはできなくなったが、現在も年間15、16公演に出掛けている。

 23日まで東京・豊島区民センターで写真展を開催中だ。昭和、平成の名優の舞台写真100点を公開している。撮りためた20万枚以上の中から展示作品を選ぶのには半年かかった。これからも目の見える限り、撮り続けたい。(ふくだ・なおたけ=舞台写真家)