芸術の価値
「アルス・ヴィタ・エスタ ヴィタ・アルス・エスタ」
先月、次女の結婚式で家族と(中央が筆者)
フランス文学者である市原豊太先生からいただいた色紙の言葉を、私は「詔(みことのり)」のように大事にしている。
芸術こそ人生、人生こそ芸術との意味である。「アルス・ヴィタ・エスタ」という、生活も家族も自分の健康も犠牲にして芸術に没頭する生き方は、ある意味でたやすい。しかし、その逆はどうだろうか。芸術を最優先する芸術至上主義の誘惑から、いつも私を現実へと引き戻し、「ヴィタ・アルス・エスタ」、つまり人としてより良く生きることを思い出させてくれたのは、妻の宏美と幸太、健二、美帆、香菜子の4人の子供たちの存在だった。
もちろん、芸術を軽んじているわけではない。芸術とは何かと問われれば、人間の生存にとって必要欠くべからざるものだと私は即答するだろう。忙しいビジネスマンの方々は、「絵など見ているひまはない」と言うかもしれない。展覧会へ足を運ぶことは余暇の一つ、なくて困るものではない。それが一般的な美術への関心度ではないだろうか。ところが、私はまったく反対の考え方をもっている。
「美」という字は、羊が大きいと書く。羊の毛、肉や乳は、人を凍えから救い、生存を保証してくれる。美しいものとは、なにより命を守ってくれるものなのである。
何千年にわたり国を追われる運命を課せられてきた民族は、自分たちの財産を貨幣で持ち出すことは困難だ。だからこそ、彼らはアート・アンド・ミュージックが自分の身を助けることを知っている。絵を描けばパンの1切れ、歌や踊りを披露すれば投げ銭を得ることができる。ナチスに迫害されたユダヤ人たちは、絵の1枚、彫刻の1つを携え、新天地での生活の基盤を築いた。芸術は、その日食べなければいけない命を支える最後のリスク・マネジメントの手段なのである。欧州で戦後いち早く美術館や劇場が復興したのはそのためだ。しかし日本的な思考は、住む家もないのだからと文化・芸術を後回しにしてきたように思う。
絵は絵空事である。いわばウソの世界だが、それは価値がないものなのだろうか。
華厳心経に「仏(心)とは巧みな画工のようなものである」という趣旨の一節がある。いにしえの絵師たちは、極楽や地獄があるという仏の教えを絵にしてきた。むろんそれは、ありようもない世界だが、人間は信じる心を持つことで徳を積み、死への恐れを取り払うことができる。絵描きとは大変誇らしい仕事なのだと、励まされている気がするのである。
多くの縁に恵まれ、助けられて幸せな画家人生を送ってきた。一番の恩返しはいい絵を見ていただくことだと奮闘してきたが、このたび、積水ハウスの和田勇会長の応援で、大阪に自作を収める美術館を作ることになった。子供や学生の教育に長年携わった経験もふまえ、創造の楽しさを感じてもらえる場にしたいと構想中だ。
子供たちも巣立ち、今は妻と2人、再び原点に戻ったような気持ちだ。初心を忘れず、これからも絵筆を握って、真っ白なカンバスに立ち向かいたい。
(洋画家)
=おわり
あすからJ・フロントリテイリング相談役 奥田務氏