生きることを諦めないこと

本当の言葉を書きます

数寄屋

 約160年前の江戸末期、醸造業が盛んな現在の愛知県半田市地震津波が襲い、翌年、大雨による洪水で大きな被害を受けた。このとき、醸造工場と共に運河沿いにあった住居を、1キロメートルほど内陸の丘の上に移す決断をしたのが、後に「中埜」に改称する中野家の3代目当主又左衛門氏だ。


招鶴亭の門屋付近=写真 坂下 智広
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 建物と庭の良い関係

 以来、約150年の間に4人の当主が、住まいとして増改築を繰り返してきた。それが複数の木造建物と庭園からなる「招鶴(しょうかく)亭」である。

 私は京都を拠点に、数寄屋の方法を元に、住宅や店舗などの設計・施工を手掛けている。感覚・技術の両面で、伝統と現代を組み合わせた数寄屋の方法を探求してきた。縁あってこのほど招鶴亭の改修に携わらせてもらった。私が設立に関わった三角屋と竹中工務店とで設計・施工を引き受け、約10年がかりの工事がこのほど完了した。

 施主は8代目当主である中埜和英氏。2003年の当主襲名を機に、これまでの当主と同じように本宅に住まいを移す検討をされる中でお会いする機会を得た。150年間住み続けられてきた家を、伝統を残しつつ、現代の生活にも対応させ、未来へ向けて残す。それが施主の意向で、その思いを反映した仕様で改修し、耐震及び免震も計画に入れることになる。

 室内には適切な風と日光が入るよう本宅周辺の地形を造成し、建物と庭の良い関係も探った。全体計画の策定と並行して、最初に迎賓施設で江戸時代末期に建造された煎茶茶室「水亭」の改修にとりかかった。その矢先、落雷による火事で滋賀県にある当社工場が焼失。創業から蓄えてきた材木のほぼすべてを失ったが、解体して工場に保管していた水亭の材は運よく焼失を免れた。

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 職人のバランスに配慮

 全敷地の築山・庭に手を入れ、各建物の新築や改修を行う工事も同時に進めた。基礎部分は、本宅内の5棟の建物が1枚の免震地盤に載る構造形式を採用。併せて庵工事では、建物を地面に固定しない石場建て工法を採用した。渡り廊下を含めた全ての建物を景観の面だけでなく、雨仕舞や構造的な面を含めた総体として考え、先祖の面影を感じる重層的な家と庭が実現した。

 職人ら作業に当たったメンバーは500人を超え、昨年5月末に本宅工事を無事竣工した。現場では地元半田と京都の職人、経験のある年配の職人と若い職人のバランスを取った。技術の伝承を意図した施主の指示で、施主の思いを現場で仕事をするすべての職人が共有できたと思う。

 地元の職人を大事にする姿勢は招鶴亭が最初に建造された時の逸話とも重なる。安政年間には全国的に凶作が続き、各地で一揆が多発。3代目は住居とともに築山を含む作庭工事をした地元の人びとに蔵に保管されていた米を手間代として支払った。その結果、半田地方では一揆がなかったと語り継がれている。この話は半田を訪れた折によく耳にした。

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 住み続けることに価値

 新しい招鶴亭は、本宅南側に大きな池を擁する。招かれた客は、東門の前から木製の舟に乗る。舟は、大きく池にせり出した木のトンネルを抜け、水亭の横を通り、水亭につながる南橋をくぐる。池面の奥の小高い丘の上に、堂々とした本屋(ほんや)(母屋)の瓦が見える。

 船着き場から建物を見上げ、石段を登り前庭に立つと、堂々とした瓦屋根とケヤキの柱、随所に煎茶意匠を取り込んだ約150年前に建てられた本屋の姿が眼前に広がる。池側に面した玄関をくぐると、柱・鴨居(かもい)などの造作材と建具すべてがケヤキでつくられた品格の高い本屋の中に入る。本屋の奥には中国様式の石灰岩を使った中庭。廻(まわ)り廊下で繋がった各建物が中庭に面して建つ。

 「家は、住み続けるからこそ価値がある」という考えのもと、施主との対話を重ねた。家・庭と家具・調度とを同時に全体観を持って計画。風景から金物の意匠までが、これまでとこれからの中埜家の軸線と重なる。

 小さくカーブした小道の先に静かにたたずむ門屋の前に立つと厳かな気持ちになる。今年8月末、施主がこれまで住まわれていた住居を解体し、芝生の広場を大きく取った西庭が新たに完成。敷地内の工事はすべて終了した。

 ただ、これで終わりではない。この現場を共にした職人と、家守り・庭守りの役目を担いたい。ここから新たな日本的伝統が生まれることを切望して。(みうら・しろう=1級建築士