生きることを諦めないこと

本当の言葉を書きます

自分らしく 小椋佳

 自分が納得して歌いたくなる歌を自ら創り、一人歌って楽しむ。それが私の歌創りの始まりであり、そもそもはそれで完結であった。なぜか出会いの運に恵まれて、自分の詩曲に独創的なアレンジが施され、有能な演奏家たちの演奏による楽曲となり、私が歌入れするレコーディングとなる、という機会を得た。


銀行を辞めたばかりの50歳の頃、コンサートのリハーサルで
 そのプロセス自体、十二分に楽しいものである。けれど、レコード化されて街に売り出され、どのように売れていくかは私のあずかり知らぬことであり、私の力の及ばぬ世界のことである。事実、私は売ろうとする努力をしたことがなかったし、拡販の努力を強要されたこともなかった。

 無論、誰も何もしなかったというはずはない。レコード会社の関係者諸兄の相当な工夫、努力はあったのだろうと思われる。発売されてみると徐々にではあるが、予想をはるかに超える評判をいただくようになった。しかし、ラジオやテレビへの出演あるいはステージ活動、それらには全て「かたくな」と言われるほど消極的なままであった。

 銀行員であったという事情もあるが、何より私に「人前に出る顔ではない」「人前に出るのは恥ずかしい」という自覚があったことと、そもそも人前に出ることを好まない性分だったことによる。

 一方、詩曲創りやアルバムの制作は年々継続して勧められもし、許されもした。自ら歌うアルバムのためばかりでなく、他の歌い手さんへの詩曲提供の依頼、CMや映画、舞台、テレビドラマの歌曲創りの要請も膨らんでいった。加えて学歌、校歌、社歌、市歌、団体歌等々。いつの間にか私の手から離れていった歌曲が2000を数えるほどになっていた。私の音楽活動は実に出無精で、横着で、ぜいたくなものであったと思う。

 1994年、50歳になったところで、つまりは銀行を辞めて再度大学生になった頃、いきなり小椋佳としてのステージの依頼が増えた。私も年を取ってやや恥知らずになっていたのかもしれない。ご要請いただくままに、人前に出ることが多くなった。学生であったせいもあり、主に土日や祝日を使って、年に50カ所以上を訪れ、少人数の編成によるコンサートを行った。

 全国に多々ある地方自治体所有のホールのほとんどが年に1度か2度、自主事業として何らかの興行をやるのが通例となっていたようである。その自主興行小椋佳のミニコンサートは予算的にも集客的にも間尺に合うのだそうだ。以降、このミニコンサートは1000回を超えて何年も続く。私としてはこれまで「飽きるほどやった」という実感である。

 こうしたコンサートを重ね、年に約50曲を創り続ける中で、私は96年、52歳の春、東大文学部思想文化学科哲学専修課程に学士入学し、翌年度の卒業論文は「正義」を主題にまとめた。54歳の春に大学院の修士課程へと進み、2年後に修士号をいただいたが、「価値」について論じた私の修士論文はいまひとつ不出来だったようで、博士課程への進級は認められなかった。これも私の挫折の一つとなった。

 詩曲創りやコンサートで忙しすぎたというのは言い訳にならない。修士課程後半、学問としての哲学に対する私の中の情熱や緊張感、あるいは内的エネルギーといったものが、いつしか減退していたのだと思う。

(作詩・作曲家)