生きることを諦めないこと

本当の言葉を書きます

赤塚不二夫

35年間赤塚不二夫の担当編集者として寝食を共にして、たくさんのギャグ漫画を送り出してきました。赤塚先生の生活そのものが常に笑いを追及して遊びこそ源とばかりの生活なのだニャロメ!
天才バカボン
困ったときはタリラリラ~ン
ギャグ漫画王 その1
ギャグ漫画王 その2
赤塚不二夫いろいろ
フジオ・プロダクション
レッツラゴン
赤塚不二夫作品 その1
赤塚不二夫作品 その2
赤塚不二夫作品 その3
赤塚不二夫作品 その4
愛すべき赤塚先生

これでいいのだ!!!
愛すべき赤塚先生
赤塚不二夫先生
赤塚不二夫さんの葬儀には、交友の広さを物語るように1200人ものマンガ関係者や出版社そしてファンの方が参列しました。

私生活もとても不思議な私生活。結婚は2回していますが、2回目の結婚は長年つきあっていた関係を理解したうえで奥さんが進めての再婚。その再婚記者会見には、新妻の他にも先生と娘も同席のうえでの記者会見。そして再婚相手と前妻も仲良くなり、先妻が再婚したらその元妻の再婚相手とも仲良くなって2家族で旅行に行ったり・・。もちろん再婚したからといって浮気をしないわけでもありません。まるで空気を吸うかのように、浮気は繰り返しいつも行くラブホテルはツケで行く。そしてそのツケの支払いには奥さんが行く。あっぱれとしか言いようがない私生活を送っていました。そしてその周囲に軋轢を生み出すことがないのが、まさに赤塚不二夫の人柄ではないでしょうか。

娘がヌード写真を撮る。となったら「絶対にゆるさんーーー!!!」が一般的。でも赤塚不二夫は違います。自分の娘が20歳の時にヌード写真を撮れ!と知人の写真家に依頼してそのヌード写真が『フライデー』に掲載されたこともありました。娘の赤塚りえ子さんは、父親にヌード写真を撮れといわれた当初は抵抗があったといいます。しかし「今となっては、別にヌードになっていようがいまいが、どうでもいい話で、むしろ若い頃にああいう上手な写真家に撮ってもらったことはいい思い出になっている」と語っています。その赤塚りえ子さんが著書で述べているエピソードに、赤塚不二夫の人柄がしのばれるものがあります。

天才バカボン』の原稿を徹夜で仕上げて、原稿締め切りの前日に編集者に渡しました。編集者は「ありがとうございます。明日印刷所へ入れます。」と帰っていきました。その1時間後・・真っ青な顔をした編集者が戻ってきて「先生申し訳ありません。原稿をタクシーに置き忘れてしまい無くしてしまいました。」烈火のごとく怒鳴り散らしてしまいますよね?!もしくは絶句して取り乱したり・・・

赤塚不二夫は違いました。怒る気配も微塵もなく「ネームが残っているからまた描ける」と言ったそうです。いくらネームがあるからといっても、絵はもちろん全部すべて描かなくいけないのにもかかわらず・・ 「今から取り掛かるぞ!」ではなく、「まだ少し時間がある。飲みに行こう」と落ち込んでいる編集者を気遣って飲みに行ったのです。もちろん少し飲んでから帰宅して、また数時間の時間をかけて原稿を仕上げたといいます。編集者に原稿を渡したときには「2度目だからもっとうまく描けたよ」という言葉もあったといいます。

赤塚不二夫にとって、いつも一緒に飲んだりふざけたりしている編集者が原稿をなくしたことぐらいで落ち込んでいることが我慢できないんです。原稿なんてどうでもいい。また描けばいいのだから。【常に面白いことを・・】を追求し続けているからこそ出た言葉かもしれませんが、なかなかできるものではありません。編集者がタクシーで無くしてしまった原稿は1週間後にタクシー会社から赤塚不二夫宅に送られてきました。紛失した原稿をどうしたでしょう。二度と同じ失敗を繰り返さないように。と編集者にプレゼントしたそうです。 怒ることは簡単なのに、怒りのカケラをだすこともなく最初の原稿をプレゼントした度量の広さ。こんな人物だから、この人のためなら・・と自然と周りの人たちが赤塚不二夫を慕うのかもしれません。

そして編集者はその原稿をずっと手元に大事に持っていました。赤塚不二夫が故人になったときに「この原稿は役割を終えたから」と娘さんに戻したそうです。現在のフジオ・プロには「天才バカボン」の同じ回が二つある。と娘さんは著書で締めくくっています。

赤塚りえ子略歴
1965年(昭和40年)・・・ 東京都新宿区歌舞伎町の新宿赤十字病院で生まれます。
1973年(昭和48年)・・・ 8歳の時に両親が協議離婚をしました。赤塚姓のまま母親に引き取られて育ちます。
東京都世田谷区の私立女子高を卒業した後は、新宿区の専門学校で映像芸術制作を学びますが1年で中退。父親鳳啓助と親しかったことから、京唄子・鳳啓助の「唄啓劇団」の公演に加わって、時代劇で目明しの子分などを演じています。ギャグ劇団「東京ギャグポンプ」でも活動していましたが、1年半で女優活動を停止しています。
1989年(平成元年)・・・唄啓劇団のスポンサー会社の社員用施設で働いていた24歳の時に、アルバイト先で知り合った新入社員と結婚します。
1980年代・・・初頭ごろより、イギリスのエレクトロニック音楽に傾倒していたことからイギリス国への定住を志して、20代半ばから英語を学び直します。
1992年(平成4年)・・・夫と離婚。
1994年(平成6年)・・・イギリスに渡り、レスターの学校で英語を学びます。
1995年(平成7年)~1997年(平成9年)・・・イースト・ミドランド地方にある都市ダービーでアートを学びます。
1997年(平成9年)・・・ロンドンへ移ります。
1998年(平成10年)・・・ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジファインアート科に入学。在学中から展覧会に参加します。
2001年(平成13年)・・・ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジファインアート科卒業。卒業制作展でギャラリーにスカウトされて以降、現代美術家として国内外で活躍。
2002年(平成15年)・・・37歳の時に、33歳のイギリス人男性と結婚。この年からロンドンのギャラリー「ダニエル・アーノ・コンテンポラリー・アート」に所属します。リトアニアで開催された「第8回バルティック国際アート・トリエンナーレ」に招待されます。
2005年(平成17年)・・・イギリスの永住権を取得します。
2006年(平成18年)・・・ 前フジオ・プロ社長で、赤塚不二夫の2番目の妻・赤塚眞知子の急逝に伴って、急遽12年間過ごしたイギリスより帰国して、その後フジオ・プロ社長に就任します。
2008年(平成20年)・・・7月30日に母親を亡くします。その3日後の8月2日には父親赤塚不二夫が死去しました。
父と母を相次いで亡くしたことで、失意に陥っていましたが夢の中で父親赤塚不二夫に「死んではいけない。りえ子、生きなさい」と言われ元気を取り戻したといいます。
反対の賛成なのだ!

元ブレーン長谷邦夫
赤塚不二夫はチームで仕事をしていましたが、その中でもリーダ格だったのが長谷邦夫です。『ライブ・イン・ハトヤ』や『ウナギイヌ合唱隊』といった赤塚不二夫が漫画以外の活動をした時にも、常に赤塚不二夫と共に行動したりといった一心同体の存在でしたが、赤塚不二夫が酒に溺れるようになり漫画活動に支障を来たすようになったとされる頃の1994年(平成6年)にフジオプロを退職して、現在は単独で仕事をしています。

フジオプロを離れてから、赤塚不二夫が病に伏した頃には、複数の出版社に「一時期の赤塚名義の作品は自分がほとんど描いた作品だから、その頃の作品の印税はこちらに払って欲しい」と金銭の催促したことがきっかけとなって、赤塚不二夫とフジオプロとは完全に絶縁状態となりました。そして結局最後まで、赤塚不二夫の葬儀にも参列していません。

密接な時代を赤塚不二夫と一緒に過ごしていたからこそ、憎しみが強くなってしまったのでしょうか・・・

文学青年だった
1937年(昭和12年)4月7日に東京府東京市葛飾区(現:東京都葛飾区金町)に生まれて育ちました。少年時代は『漫画少年』に投稿しています。

石森章太郎が主宰する東日本漫画研究会の同人となって、肉筆回覧同人誌『墨汁一滴』の執筆陣に加わりました。石森や赤塚不二夫らが住んでいる豊島区椎名町トキワ荘に出入りしていたので、新漫画党員ではありませんが広い意味で「トキワ荘メンバー」に含める場合があります。東京都立芝商業高等学校を卒業後してから塩野義製薬に就職しましたが、結核の兆候が発見されたこともあった、入社後3ヶ月で退職して漫画一本の生活に入ります。曙出版を中心に貸本マンガを1964年(昭和39年)まで約7年間執筆しました。この時期には、徳南晴一郎(怪奇漫画家)の仕事を手伝ったこともあります。その後は、トキワ荘グループが創立したアニメ企画会社スタジオゼロに入社します。そのままスタジオゼロ社の雑誌部のチーフアシスタントとなって、『オバケのQ太郎』や『レインボー戦隊ロビン』を手掛けました。1965年(昭和40年)赤塚のフジオ・プロダクション創立に参加しました。

1969年(昭和44年)に『COM』に連載された「バカ式」(つげ義春の「ねじ式」と赤塚不二夫の『天才バカボン』の混合)に代表される一連の混合パロディ漫画は、当時流行っていた漫画評論でのギャグ漫画軽視や過剰解釈に対する強烈なメッセージとなりました。しかし、掲載誌の変更に伴って、そういったメッセージ性は減少していきました。

フジオプロではアイデアマンと作画などを担当して、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『天才バカボン』『もーれつア太郎』『ギャグゲリラ』といった主要作品の全てに関わっています。また、赤塚のアメリカ取材や赤塚が企画した写真漫画(週刊少年サンデー掲載。アクターとして出演)にも携わったほかに、「赤塚不二夫責任編集」と銘打った雑誌『まんが№1』の事実上の編集長となって、後年は赤塚のマネジメントも担当していました。実際にゴーストライターとして赤塚名義で発表した原稿も多くあります。 もともと現代詩を書く文学青年でもあったので、江戸川邦生名義で小説も発表しています。SF同人誌『宇宙塵』の初期からの会員でもありました。他に、1974年(昭和48年)井上陽水の『氷の世界』収録曲「桜三月散歩道」(元は『まんがNo.1』の付録のソノシートのために作成された曲)の作詞で日本作詞大賞LP賞受賞しています。

1970年代は山下洋輔トリオとの交友も深かったので、タモリが上京して初めて芸を披露した場面にも立ち会っています。フジオ・プロから独立して以降は、漫画家として創作活動をするよりも、講師として後進の指導を行っています。このため、同年代の漫画家よりも現在の漫画事情に詳しくなっています。2006年(平成18年)4月からは、アートアンドスポーツ専門学校が新設した小説・シナリオ科の大衆文藝演習の講師も務めています。

漫画作品
1958年(昭和33年)・・・『殺人鬼を逃すな』 :曙出版
1968年(昭和43年)・・・『しびれのスカタン』(赤塚不二夫原作):曙出版
1969年(昭和44年)・・・『東海道戦争』(筒井康隆原作):朝日ソノラマ
1971年(昭和46年)・・・『フジオプロ作品集 ニャゴロー』: 曙出版
1992年(平成4年)・・・『南方熊楠 民話・粘菌・密教』 :ダイヤモンド社
1992年(平成4年)・・・『出口王仁三郎“軍国日本”を震憾させた土俗の超能力者』:ダイヤモンド社
1992年(平成4年)・・・『アインシュタイン はじめて宇宙の果てまで見た男』 :ダイヤモンド社
1992年(平成4年)・・・『フロイト あなたの深層心理にいま一つの光が当たる!』:ダイヤモンド社
1992年(平成4年)・・・『ノストラダムス 滅亡へのカウントダウンが始まった!』:ダイヤモンド社
1994年(平成6年)・・・『カーマスートラ』 :漫画原作担当 絵:永井豪徳間書店
2005年(平成17年)・・・『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』 :マガジンハウス
パロディ漫画作品
1969年(昭和44年)・・・『赤塚ギャグ笑待席』「スパイ代作戦」: 週刊少年ジャンプ掲載
1970年(昭和45年)・・・『フジオプロ作品集 バカ式』 :曙出版
1971年(昭和46年)・・・『少年マネジン』: 実業之日本社
1972年(昭和47年)・・・『フジオプロ作品集 アホ式』: 曙出版
1975年(昭和50年)・・・『フジオプロ作品集 マヌケ式』: 曙出版
1978年(昭和53年)・・・『フジオプロ作品集 絶対面白全部』: 曙出版
2002年(平成14年)・・・『パロディ漫画大全』:水声社
漫画以外の主な著書
『脳に気持ちいい乱読術』・・・ダイヤモンド社2
『天才バカ本なのだ!!!―忘れようとしても思いだせないパパの謎』・・・評伝社 :バカ田大学バカボン研究会編 (共著)
『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』・・・冒険社
『漫画の構造学!―マンガ・まんが・漫画・劇画・万画・コミック・ポンチ絵「分析ノート」』 (大学での講義用ノートに基づく漫画学教科書)・・・ インデックス出版
『漫画に愛を叫んだ男たち』・・・ 清流出版
『1の思想』・・・エムジー
『ニッポン漫画雑誌名鑑』・・・データハウス
『ニッポン漫画家名鑑―漫画家500人のデータブック』・・・データハウス
『ニッポン名作漫画名鑑―名作漫画194本いっき読み!!』・・・データハウス
『マンガ編集者狂笑録』・・・水声社
『マンガ家夢十夜』・・・水声社
『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』
バカ田大学の秘密がわかるのじゃ!
マイホーム購入専門店 である当社が自信を持っておすすめする物件です!八尾 不動産新築やリフォーム済み、価格が良心的なものなどなど、早く予約しないとすぐに契約が入ってしまうものばかり!

「夜はねるべし」